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ソール・ライター と ヴィヴィアン・マイヤーの感想

2020年5月31日  2020年5月31日 
最近、私の半径10m以内で話題の写真家と言えば
ソール・ライター と ヴィヴィアン・マイヤー

両者とも、路上・街角でスナップ写真を撮る「ストリートフォトグラファ」ですね。
そして、両者とも残念ながら故人となっています。

ソール・ライター と ヴィヴィアン・マイヤー 両者に関して重要なことは、共に現在評価されている写真・写風は、高名な評論家や写真家によって高く評価されたり、或いは権威ある写真コンテストで受賞し 世間に広まったのではないという事です。

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http://cdn.vivianmaier.com/wp-content/uploads/2013/11/VM1978K04566-11-MC.jpg

素人が評価した ソール・ライター ヴィヴィアン・マイヤー

両者を有名にしたのは高名な評論家ではない、、
では? 
誰が評価し世間は認知されたのか?

簡潔に言えば(ネットの普及による)多くのアマチュア写真愛好家の目に留まり、熱狂的な支持を得た
という事になるでしょう。

ソール・ライター

彼は若い頃、ファッション誌業界で有名なファッションカメラマンであったので、一定の知名度はあったものの、業界を引退した後の「ストリートフォトグラフ」「家族写真」については彼の晩年に認知され評価されたものです。

1994年に写真感材メーカーの補助金による1940年代後半から1950年代にかけて撮影されたカラー作品の個展が開催された。
そのギャラリー・スタッフが感銘を受け世に広めましたのが発端です
 
2000年代にはインターネットが普及拡大と共に多くの人の目に留まるようになり2006年『EarlyColor』が出版されると一気にソール・ライターの名前は世界に広まりました。

1940年代後半から1950年代に撮影された写真が2006年に大ヒットしたわけです。

ソール・ライターは、1923生まれです
20代から30代に撮影した写真が、70代で光があたり80代で評価され称賛されたのです。


写風について
絵画的で(少し日本画のような雰囲気)きれいな構図と元ファッションカメラマンらしいお洒落な写真。
観る人の視線が写真内で動く(彼の意図した事はあきらかです)
彼を一言でいえば 天才! ですね。
彼は、2013年に亡くなってしまいました 残念です。

ソール・ライターの日本語公式webがありますので興味ある方はどうぞ!

ニューヨークが生んだ伝説の写真家 永遠のソール・ライター
https://www.bunkamura.co.jp/museum/exhibition/20_saulleiter/

動画もどうぞ!





ヴィヴィアン・マイヤー

彼女はアマチュア写真家とし非常識とも言える15万枚以上の写真を撮りましたが、しかし、生涯それらを写真を1枚も発表することはありませんでした。

彼女の写真が世間に広まったきっかけ はかなり面白くドラマっぽいです。

2007年 ヴィヴィアン・マイヤーがレンタルしていた倉庫の家賃を支払えなくなり未払いとなった為、家賃回収の目的で管理会社が開いたオークション(要はガラクタの処分市?)でたまたま 物好きなジョン・マルーフがその中に埋もれていた(約3万枚)ネガフィルムを気まぐれでを380ドル(約4万円ちょっと)で落札した。

マルーフ氏は、落札時点で元の持ち主(撮影者)が誰なのか、何が映っているのか、知らないまま落札した。(マルーフ氏がシカゴ地区の歴史について調べていたので、その資料収集の一環であると考えられている)
*シカゴのコレクターRon SlatteryとRandy Prowも、同時期落札


購入後にマルーフ氏は その写真に感動し写真をFlickrにて公開しました。
すると多くのフォロワーから好意的な反応があり マイヤーのフィルムを更に買い集めたようです(最終的にはマイヤーが残した15万枚の写真を収集した)

マルーフ氏は写真の収集と共にヴィヴィアン・マイヤーさん自身にも興味を持ち関係者へ色々と話を聞いています。

ここで 
ヴィヴィアン・マイヤーさんにの人生について書いてみます
1926年 ニューヨークでフランス人の母親とオーストリア人の父親の間に生まれる
その後 両親は離婚したようで メイヤーが4歳のとき彼女と母親は、当時プロの写真家だったベルトランと一緒にブロンクスで暮らす。1935年 ビビアンと母親はフランスに住んでいた
1938年 ニューヨークに戻る その後 フランスに行く
1951年 フランスからニューヨークに戻る
1952年、最初のRolleiflexカメラを購入
1956年 乳母兼家政婦として働きはじめる 
1959年と1960年に、マイヤーは世界中を一人で旅し、ロサンゼルス、マニラ、バンコク、上海、北京、インド、シリア、エジプト、イタリアで撮影(旅費は遺産?)

晩年貧困にあえぐ彼女を 幼い頃に世話をしてもらっていたゲンスブルク兄弟が、シカゴで環境の良いアパートを手配し住まわせた。
2008年11月、氷の上に落ちて頭を打ち 入院するが回復せず
2009年4月 亡くなる。

最初にも書きましたが、彼女は膨大な数の写真を撮りながら一切公表していないのです。
これは、自分の写真の他人の評価に一切興味が無かった と言えるでしょうか?

「写真」ではなく「写真を撮る行為」(撮影)が好きなだけでなのかもしれません。

彼女の写真を観て、素人の趣味を超える15万枚の写真の数に、私は、何かしらの「病」を感じます。


写風について

彼女が若い頃使用していたのは、二眼のローライフレックス、120フイルム使用でファインダーは上から覗き込む「ウエストレベルファインダー」のカメラ
写真サイズは 1:1の真四角写真です。
いわゆる「日の丸構図」が多いが、その分テーマがハッキリします。

ソール・ライターの評価で「絵画的でお洒落な写真」と評価しましたが、ヴィヴィアン・マイヤーはその逆で「ストレートで野暮な写真」だと思います。
それは 特に人物写真ではっきり表れるような気がします。

後に、二眼から普通の135フイルムカメラに移行しモノクロからカラーに移行しても、強烈で皮肉っぽい写真は健在なようです

彼女をひと事で表現すれば 奇才!

個人的には どちらと言うとモノクロ時代よりカラー時代の方が好きです。



興味があれば ぜひ!

ヴィヴィアン・マイヤー公式web 
http://www.vivianmaier.com/

でどうぞ!


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